優しさとお人好しの違い

今日何となく考えたこと。



優しさとは,無償の愛のことを言うのではなく,自分のリソースの大切さを自分自身認識していて,自分でしっかりと納得したうえで自分のリソースを他者に与えることを言うのではないだろうか。



それに対し,お人好しは自分のリソースの価値を貶めるような形で,言い換えると誰に対してでも際限なく,目の前の人に次々とリソースを割いていくと言うことではないだろうか。

そしてお人好しは基本的に全てを受け入れるために,断ったり決断を下すことがものすごく苦手(八方美人)。



そうすると,八方美人で何が悪いと言う疑問もでてしまうのだが。八方美人はやはり良くないと思う。自分と全く波長の合わない人間を受け入れると,人間は確実に蝕まれていくと思うので。



マザーテレサのような底辺の人にこそ愛を注ぐべきという考え方すら,底辺の人を愛し,それ以外の人は(特に裕福な人は)自分の関わる対象ではないという決断をしていたと想像する。そして彼女は,まさに底辺の人を愛することで,底辺の人々から最高の愛を受け取っていたのだろう。

”いじめに対する担任の責任”を考えるために

体罰論…というか,どう見ても皮肉(こころはどこに行くのか)
http://d.hatena.ne.jp/jo_30/20090916/1253110225
を読んで,疑問に思ったことをコメント欄へ質問をさせていただいた。

そのコメントに対して回答を頂き,私はいじめと体罰について考察をしていこうと考えた。体罰については上記ブログ内のコメント欄で意見を表明させて頂いたが,いじめについては自分のブログで考察を行うことにした。

そうはいっても,なかなか記事を書こうという気持ちにはなれなかった。それにはいくつか理由があるが,特に大きな理由としては,脳内でいくつか考えを広げていったときに,あまりにも多方面に考えが発散していくために考えがまとまっていかないという感覚になることが大きかった。

そもそも,上記ブログ記事の中でjo_30さんが述べられていることは体罰に関することであり,そこに私がいじめという要素を絡めてコメントをしてしまい話が複雑になってしまった経緯がある。だからこのいじめに関する記事は,jo_30さんへの応答の約束でもあるが,その側面より自分の考えの整理の側面の方が強いと思っている。それくらい話が広がっていく(長くなる)可能性があるのと,それにお付き合いいただくのは虫が良すぎるかなという思いがある。


そう言うわけで,本当は一つの記事だけで完結させたかったのだがそれはあきらめて,いくつかの記事に分けて考えていこうと思う。ここから派生していく記事の内容はチラ裏レベルかもしれない。あらかじめお詫びしておきたい。

前置きが長くなったが,今回はいじめについて考察する前提として,リンク先のやりとりで,いじめに関して私が抱いた疑問を列記していく。


1.担任が担任としての責任を果たし得なかったとして,その際担任は何かしらのペナルティを受け取ることは必須であるのか。おそらく一教師の対応力だけでは対処しきれない事態というのは起こり得,かつ周囲の批判にさらされる可能性もある。その際に,くそ真面目な教師ほど責任を自分に押しつけノイローゼになったり,無力感に打ちひしがれ職場を去る可能性はないだろうか。そうしたときに,その教師は真に問題教師にカテゴライズされる存在なのだろうか。不的確教師というのは,その様な自己を振り返るための問題意識すら持たずに明らかに社会的な道義にそぐわない(例えば特定の政治信条やカルト宗教を生徒に広げていこうとする)存在のことを指すのではないだろうか。もしそうであったとしたときに,スキル不足ではあるだろうが良心はある若手を失うことは社会にとってマイナスではないのだろうか。

2.責任とは,ある負の事柄が起きたとして,その原因が自分にありかつ自分の行為次第でその事柄が起きないようにできる可能性が十分にあるときにこそ追求されるべきものではないのだろうか。自分の力の及ばないところに原因があったとき,もしくは自分に十分な権限が備わっていない状態で責任を求められるのはいささか理不尽なのではないだろうか。

3.いじめに対して,いじめを行った生徒に罰を与える”警察的対応”は行う必要はあるのか,それとも必要ないものなのか。反社会的な行動を行ったものに対して教師は,それがいけないことであることをどのようにメッセージとして発信すればよいのか,それとも発信する必要はないのか。

4.教育委員会はその対応によってマスコミの批判を受ける圧力にさらされているが,そのマスコミの批判が不当である場合,それを効果的に訴えるカードを持ち合わせているだろうか。マスコミの攻撃力は決して弱くはない。それに遜色なく対抗するためにどのような力を備えるべきなのか。根性や腹を据えるだけで対決が可能なのか。マスコミは相対的に政治的強者ではないだろうか,それとも対等な関係であるといえるのか。

5.いじめと大きく関わりのある「陰口」は絶対悪であると言い切れるか。陰口をゼロにすることは可能か。またその様な努力をすることに果たして本当に大きなプラスの意味が期待できるだろうか。

6.いじめの本質として,それは自殺ゲームと共通するものがある(再びいじめについて少し書いてみる〜こころはどこに行くのかhttp://d.hatena.ne.jp/jo_30/searchdiary?word=%2a%5b%a4%a4%a4%b8%a4%e1%5d)という考えに対して,いじめられる側に明らかに非があり,しかしいじめられてしまったことは事実で,被害者が自分の非に対しては何ら罪の意識を抱いておらず,自分たちを絶対的な被害者であると主張し一方的な謝罪以外の一切を拒絶する場合,どうすればいいのか。

7.以上のようなことを一つ一つ詳細に考えることは,果たしてプラスの意味を持ち得るのか。(問いの立て方,疑問の内容がナンセンスなものがあるのではないか。)

増田さんへの応答ー体罰についての一考察

部活の思い出:追加 ーはてな匿名ダイアリー
http://anond.hatelabo.jp/20090205003425への応答です。(ブコメで約束してしまいました)

まず、私の立場は体罰原則禁止です。話が長くなるので始めに表明しておきます。その方が展開が予想しやすいと思うのと、増田さんが経験された部活の専制体制を否定するので、お聞き苦しい部分があったらすみません。

愛は…どうだろう。あったのかな。なかったのかな。
本当にわかりません。

体罰を消極的に容認してしまう理由は大きく3つあると思います。勝負に勝つため。礼儀を身につけられる。そして愛ゆえにです。

まず、スポーツの勝負に勝つために体罰は有効に働く場合もあるかも知れないと同時に、決して必須であるとはいえません。体罰を行わずに強いチーム作りを目指すことも不可能ではありません。であるならば、体罰を用いる正当性はそこにはありません。

かつ、勝利を目指すことは大切なことであると同時に、結果として勝てなかったとしても、負けたことで価値がなくなるわけではありません。価値がないというのであればそれは思い上がりです。プロスポーツならともかく、少なくとも教育の一環として行っているのであればなおさらです。勝利以外にもスポーツは様々なことを教えてくれます。指導者が良い条件付けさえ行っていさえいれば、敗北からでさえ学ぶものはあります。

元々スポーツには勝ちに拘る以外に楽しむという要素も多く含まれています。そこに修行のような意味づけを行ってしまうのはおそらくアジア圏特有の考え方でしょう。そして修行にまで話を広げてしまうとそれは寺(宗教:主に禅宗)や軍事鍛錬の領域であり、解脱か殺人のためという様に目的が変わってきます。


礼儀についても同様です。体罰を行うことで効率よく礼儀を刷り込ませることが出来る可能性があると同時に、体罰を行わないことでも礼儀の大切さを教えられないとも言い切れません。であるならば、やはり体罰を肯定していい理由にはなりません。


最後に愛。体罰が発生したときにそこに愛があるかどうかを客観的に証明する方法はありません。(少なくとも私には思い当たりません)そして、愛がなくても、愛の名の下に体罰を行うことは可能です。愛の名の下に(例えば試合での敗戦などという軽々しい理由で)自分の怒りを発散させる体罰を行うことも出来てしまうのです。これは愛という偽りの鎧を身に纏いつつ自分の激情を放出させ人を傷つける、周囲を騙すという点で非常に狡猾であり悪質です。

またそこで、ケースバイケースで許容しても良いのではないか(教師の人となりを周囲が見て判断すればよい)という意見も考えられますが、それは子どもを傷つくリスクにさらすことになります。ある意味ギャンブルです。しかもそのリスクをかいくぐったとして得られるものは一定の礼儀作法の習得と将来に置ける飲み会でのネタを入手できることぐらい。これを私はリスク甚大リターン極小であると考えます。


以上で述べたい事はほぼ述べきったのですが、いくつか補足的に書いておきたいことを書いておきます。

まず、大ざっぱに考えて世の中には、教育に体罰を用いることを許容し是とする人と、明確に否定する人の2種類に分けられると思います。元記事のブコメでも指摘されている方がいましたが、体罰を受けて育った大人は体罰に許容的になりやすいと思います。メタ視点に立つと、体罰許容論は世代を超えて体罰を再生産していくのです。(抑圧移譲という言葉が出てましたね。)


実は私は最近まで体罰を必要悪としてある程度許容していました。私自身体罰を受けて育ち、それに感謝していたからです。厳しくしつけてもらっていて今の自分があると思っていたからです。これが洗脳であったと気づけたのは、本当に偶然だったと思います。それくらい無意識の奥深くにもぐり込んでいくのです。
ストックホルム症候群という言葉も出てました。)


もう一つ。体罰には問題を解決する手段として暴力を振るっても良いというメタファーを子どもたちに伝えます。そういうメッセージ〜暴力・侵略・戦争を肯定し、法を尊重しない(体罰は学校教育法上禁止されている)〜を教育機関が発信するということなのです。憲法や人権を大切にしない人間を育てるのは現代の初等中等教育の目的・方向性とは真逆です。教師として不的確といわざるを得ません。


応答が遅れてすみませんでした。最後に参考記事のリンクを張っておきます。


体罰の何がダメか未だに分かってない人が多すぎるので、書く。ーはてな匿名ダイアリーhttp://anond.hatelabo.jp/20081121183459


拙ダイアリーから3つの関連エントリ(内容が連続してます)
体罰はいけないと言うけれどhttp://d.hatena.ne.jp/matcho226/20081027/1225111422
体罰反対を表明するために避けては通れない話http://d.hatena.ne.jp/matcho226/20081028/1225208878
背理法体罰の正当性がなくなっていけばいいなhttp://d.hatena.ne.jp/matcho226/20081030/1225370490

お寺は貧困に向き合うべき?

自殺と向き合えない仏教ー浄土真宗@
http://d.hatena.ne.jp/macha33/20070911

問題は、「仏教の教義」が、自殺志願者にどんな言葉を投げかけることができるのか、ということであろう。

僕は仏教についての知識はさほど持ち合わせない門外漢であるが、本来この様な問題にこそ宗教に携わる者が積極的に関わるべきだと思ってしまうのは、果たして見当違いな考えなのだろうか。


なぜそう思うかというのは甚だ単純で、貧しい人に手をさしのべていたマザーテレサに感動したことであったり、小さい頃に歴史のマンガで行基空海が貧民救済やため池工事を行っていたことを読んだ記憶があることであったり、大学時代に「出家とその弟子isbn:4101059012、人間というものにとことん向き合った親鸞の直向きさに心打たれたことがあるからだ。


派遣村の問題でも、湯浅さんが立ち上がり、それに呼応する形でボランティアが集まったり、様々な政治団体が関わっていき賛否合わせてずいぶん物議を醸したが、その騒ぎについて知人がつぶやいた言葉を自分は今も消化できないでいる。

「こういうときにお坊さんって、何で動かないのかな。日比谷公園厚労省も良いけど、増上寺寛永寺だって手を挙げてくれても良いんじゃないか?ていうかこういうときこそ本来宗教の出番なんじゃないか?」

そのとき僕は「うーん」と唸っただけだった。その考えがどれほど的を得ているのかも、正直僕には分からない。


率直なところ、宗教って冠婚葬祭以外になじみのあるものではない。でも、寺社に行くのは結構好きな方で、そこでは熱心にお祈りをしている人にも出くわすことが多くある。そのときには、自分との感覚の違いに少しだけ驚く。


話はややずれるが、きのう生まれて初めて街を歩くお坊さんにお布施をしてみた。僕にとっては非日常的体験だ。お坊さんは僕にお辞儀をして、僕に向かってお経を読んでくれた。なにぶん初めてだったもので少しだけ恐縮してしまった。

消費税を上げるべきか中学生にも考えられるように書いてみた。

自民党内で消費税を上げることについて対立が深まっている。800兆の財政赤字と増加する社会保障費を今後どのように賄うべきかが問題視されているからだ。

対立の構図は「消費税率を上げ税収を上げるべき」vs「強い企業をつくり税収を上げるべき」

残念ながらどちらも国民に優しい政策ではない。増税は言わずもがな。もう一方は、強い企業をつくるために労働力が安く買い叩かれやすい。小泉構造改革の方向性がそうだった。(方々から抵抗があったため改革そのものは充分ではなくいびつな状態だ。しかしそれは自民党の中で考え方に差がありすぎ一貫性に欠けるためでもある。)

どちらにせよ、国民に負担をしてもらおうというのが自民党の方向性だ。これは、これ以上次の世代に負担(借金)を先送りすべきではないという考え方ともいえる。今の人たちの医療や福祉を国債(借金)で賄うのは、次世代に負担してもらうことに近いからだ。これはこれから生まれてくる声なき世代にツケを残せないという道義上の問題であると同時に、国債を際限なく発行していくことが、財政における利払いの額を増やすことになり、公共サービスの質を低下させることに繋がるからだ。また、借金が増えて一番困るのは借金が出来なくなる可能性が高まることだ。それがいつのことかは分からないが、市場に「この国は借金を返せないな」と思われてしまったら国債はもう出せなくなる。

自民党の方針は一定の正義があると共に、国民へは痛みを受け入れてくれとお願いする政策だ。選挙上は非常に不利な政策でもある。


それでは対する民主党はどうだろうか。民主党は基本的に、行政の無駄をなくすことで医療や福祉にお金を回せると考えている。これは国民に負担をお願いしなくて良いので国民のウケは当然良くなる。しかしこれは自民党霞ヶ関の行ってきたこれまでの行政サービスの全否定に近い。全面的に組み替える必要性が出てくるからだ。
そして組み替えた後が組み替える前より良くなるとも限らない。まずこれまでの公共サービスの実務者に抵抗される可能性がある。霞ヶ関都道府県。市町村。第三セクター。国の事業を請け負っている会社。それらの抵抗に抗うのは並大抵のことではない。そのような大手術を行えるだけの胆力が民主党にあるのかは大きな問題だ。そして民主党の考えている組み替え案がよりよい公共サービスを提供できるデザインであるのかも問題だ。

しかし、抵抗を恐れていたら改革が出来ないのも事実ではある。改革が出来ないから官僚の良いなり、地方の言いなりでは本末転倒になる。

現在の国政について国民の判断すべき事柄の一つは、国民の負担増を容認するかどうかであることに違いはない。

そして蛇足だが、政治に大きな力を委ねられないのは、国民が権力を付託した議員よりも官僚に任せた方がましと考えているからであり、国家財政や公共サービスのグランドデザインを考える国民の絶対数も少ないという現実があるからだと思える。

参考:[消費税]自民「2段階方式」了承 引き上げ時期めぐり
http://news.livedoor.com/article/detail/3985278/

確かに数学が出来る人には痺れる憧れるぅ!

理系兼業主婦日記 - 直線的な思考の「いい子」に、算数や数学ができるようになるか?(追記あり
http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081204/p1


出遅れたけど勢いで書いてみようと思う。

数学については、僕は高校でついて行けなくなった口だ。

僕は物事について何でも「理由」を求める性格で、数式一つも、何でその式が導き出されるのかを考えなければ気が済まないたちだった。

例えば等比数列の和の式。確かこの式を導くにはSに公比を掛けるという作業を行っていた(気がする)。ここのところが僕に言わせればかなり突飛な発想と感じられ、導く過程としてなぜそのように数学者が発想したのかが皆目分からずうんうん唸っていた記憶がある。

先生はその公式の理屈は説明してくれるが、僕が知りたかったのは”何で(どこから)その理屈(式を導く決め手となった発想)が降ってわいてきたのか”だった。

そのような質問をしたところで答えてくれる人はいるはずもなく、みんなが一定のペースで進んで行くなか、立ち止まり進めず授業に乗り遅れていった。


くるえるはてなくしょん - ちょいワル親父と数学ガール
http://d.hatena.ne.jp/kskmeuk/20081204/1228402827

等差数列の和の公式なんだけど、ガウスと同じ方法*1を私が中学生くらいのときに教えてくれてさ。そういうのがなかったら数学は挫折すると思う。そのかわりすごく楽しいところは、本当に楽しい。

例えば 1から 100 まで全部足したらいくつだ? みたいな問題のときに....

折り返して足したら

強調しきれないので思わず再引用。

折り返して足したら

↑ここ!!

僕はここで「何で折り返すなんて発想が出来たの?何で折り返すなんて発想が出来たの?何で(ry」
と無限ループに陥った。そんなことが数知れないほどあった。


そうやって数学で点が取れなくなっていったとき(まあそうなるわなw)に、書店で和田秀樹が書いた書物を読んだ。そこには数学は暗記だと割り切れと書いてあった。僕はそれがどうにも納得できなかった。納得いかないまま暗記しようとしてもモチベーションは上がらなかった。またテストで悪い点を取る。悪循環。


今だから少しだけ分かるが当時分からなかったこと。それはあの他の教科書に比べひどく薄っぺらい数学の教科書の中の一行一行は実にさらっと記載されているように感じるが、それは多くの数学者がケンケンガクガクと思考・検証を重ね築きあげていった、それ以上削ぎ落としようがないくらいの結晶体であったのだということ。しかしそのようなある意味泥臭い背景には全く思い馳せることの出来にくい仕様であったのではないか(教科書が)と個人的には感じている。


まあ、単純に僕がバカなだけだった可能性も大いにあるんだがw。直線的に考えずに挫折した一例って事でw。


暇があったらも一回数学書読んでみようかな・・・

背理法で体罰の正当性がなくなっていけばいいな

この記事を書く時点で、
前記事:体罰反対を表明するために避けては通れない話http://d.hatena.ne.jp/matcho226/20081028/1225208878に2つのブクマコメをいただいた。とても考えさせられるコメントだった。ありがとうございます。


特にid:y_arimさんのコメントはたくさん考えさせられた。

ぼくの立場は、たったひとつの個人的な成功体験を「美談」として持ち上げ&一般化し、他者に対する範としてアピールするようなやつは糞馬鹿だということです。
はてなブックマーク > 体罰反対を表明するために避けては通れない話 - 啓発録(装った炎と高原の風)
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/matcho226/20081028/1225208878


これを読んで考えたことは、”なぜ私は糞馬鹿になってしまっていたのだろうか”(かな?)


私は山口良治という存在・人間の実績に圧倒されており”彼を否定するのは簡単ではなく、彼の実績と彼の体罰を含む振る舞いは切り離せない”と思っていた。しかしy_arimさんはそれを(あっけにとられるくらい)簡単に否定した。


何だ。簡単に否定できるのか。否定すればいいのか。


じゃあなぜ自分は否定できなかったのだろう。あたまがわるいからだろうか。


人間は社会人になるまでに多くの人に関わってもらっている。親。何人もの教師。私は彼らに、教育と称してそれなりに殴られてきた。


その上で私は彼らにいろんな形で世話になってきた。結果、”殴られるのは嫌だったが、なんだかんだ言って私はいろんな意味で感謝している。”という思いを抱いていた。
(ここが大事なところだと思うが、”感謝しているが、殴られたのは嫌だったし絶対に許せない。”ではなかったのだ。)


これって洗脳されていたのだろうか。暴力を肯定させられていたのだろうか。思い返せば暴力を振るわれたその場では、その理由に正当性があろうがなかろうが、服従しなければdisられて生きる場所を奪われる恐怖があり、選択の道がなかった。


ともあれ、今日まで私は体罰はいけないことだと思いながら、一方で愛あるゲンコツの存在を信じ(させられ)ていた。
そして矛盾を内在したまま記事を書いて、y_arimさんのコメントを受け取った。


少々乱暴な意見だが、世の中に体罰許容の意見が散在するのは、その人たちも私のように考えてきたという可能性はないだろうか。体罰の再生産。
(これも私という個人の経験の一般化かもという怖れはあるのだが。客観的なデータを元にしていないからどうしても論理が上っつらを滑ってしまう。)


y_arimさんのブクマコメに相当する内容を自分で書くことができれば、(できは悪いが)背理法的に体罰はいけないという論を残すことができたのに。残念でならない。


からまった糸が少しだけほどけたような気がした。



追記:
メンターなりロールモデルなり、人間は自分が共感できる”憧れ”を特定の人物に求め、その存在に追いつき追い越そうと、自分が努力をする動機付けにする傾向があると思う。サッカー少年が中村俊輔に憧れるように。

守破離の守の段階では”あばたもえくぼ”になってしまいがちだが、山口先生をメンターにしている教師が”山口先生の指導全般”と”山口先生の体罰を含めた指導”を切り離して捉え、指導して下さることを望みたい。

また(私は知らないが)体罰を明確に否定するカリスマ性(情報発信力)のある教師の出現を望む。
この国には(教師ではないが)星一徹の亡霊がまだまだ浮遊しているように感じられてならない。