孤独者による無差別殺傷事件を助長するマスコミと社会:追記

 昨日平塚で通り魔事件が発生した。犯人は女性だった。

 一つ前のエントリーで立てた私論とは犯人像や動機などは異なるものもあるが、ここ最近の通り魔事件は、軽く調べただけでも戸越銀座(東京)・大阪・名寄(北海道)・東海(茨城)・甲府と決して少なくない。しかもほとんどが、秋葉原無差別殺傷の起きた後である。人が死んでいないのでテレビの露出も低めだが、連鎖的に発生している様相が見られる。

 しかし逆に言えば、人が死んだときの過剰報道はやはり相当なものなのだと痛感する。連日に渡って被害者の親類が悲しむ様子を克明に映し出したり、必要以上に不安をあおり視聴率をとる。テレビ局は「国民の知る権利を代行する公共の代表者」などではないのだという思いを非常に強くした。ノンフィクション娯楽の要素の強いテレビ報道は、私はもう見ることはないであろう。


いじめ社会学者の内藤朝雄さんがブログでマスコミの姿勢を質している。
 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG− - 八王子の通り魔事件について
 http://d.hatena.ne.jp/izime/20080725/p1 より引用

酒鬼薔薇の後の、佐賀バスジャックのような模倣犯のパタンが続いた場合、マス・メディアは、人殺しの片棒をかついでいる、と非難されてもしかたがない。

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他者の像と自己の像が重なった「想像界」だけで生きていたら、妬みと殺意で収集がつかなくなる。そこに、「こころ」と「こころ」を重ねる世界とは別次元の、ルールの世界が、他の動物に比べて「自己」が寸断されやすい人間の、救いとして現れる。このルールの世界が、「こころ」過剰なマス・メディアの報道で、破壊されようとしている。「こころ」の論点で、犯罪者の物語をばらまいてはいけない。