孤独者による無差別殺傷事件を助長するマスコミと社会

 電車で秋葉原の駅を通過したときだ。ここで、ふいにいくつもの命が奪われたのかと思うと背筋に戦慄が走った。隣にいる人が殺人を企てているかもしれないという疑心暗鬼におそわれた。この様な事件はこれからも起きてしまうのだろうか。一度は自分なりに考えねばと思った。以下やや強引に理屈づけた部分もあるが自分なりのまとめである。


 荒川沖、秋葉原、八王子。それぞれの犯人の共通点とは何だろうか。
 1.30代(荒川沖の犯人は20代)で仕事、収入が不安定  
 2.大人しめであるが、孤独感にさいなまれ屈折した人格


 1について、犯人はバブル崩壊後におきた就職氷河期世代(荒川沖は若干年下)。成果主義といいながら、バブル崩壊以前の年功序列型徒弟制度(いわゆる「10年は泥のように働け」的労働観)を引きずる上司にいいように使われながら、旨みはバブル以前の社会人世代に持ち逃げされるという図式の象徴的存在である。一億総中流という美辞麗句と、開かれない自分の未来とのギャップに絶望している。

 はてブで大きな反響を呼んだ@ITNews
 はてなブックマーク > 「10年は泥のように働け」「無理です」今年も学生と経営者が討論 - @IT
 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.atmarkit.co.jp/news/200805/28/ipa.html

 とはいえ、現状に不満を持ちながらも歯を食いしばっている方が多数だとは思われるが。
 とどけ、負け組世代の叫び 
 八王子無差別殺傷事件に思う「ぼんやりとした不安から、確信した不安へ」
http://lostgeneration10.blog17.fc2.com/blog-entry-12.html 
 ”今現在、我々の声は届かない”というこの方の思いは、そうだろうと思うし、まだまだ世間の認識は自己責任論に根ざしたものが多いと思う。企業が採用を絞りに絞った時代性を考えると、個人的には非常にやるせない。


 だからといって生活苦が見ず知らずの人を殺す理由にはもちろんならないし、そこへの飛躍は理解不能であるというのが一般的な感覚であろう。だから2について考えていく必要がある。


 ※以下の考察は、私としても十分な自信があるわけではない。ただそれでも書くことに意味があると思うので、続けようと思う。一つの仮説だと思って欲しい。


 人に認められたいという思いは、その思いが強くなるほど人間を大人しく従順にさせる。仕事で認められたいと思えば上司には逆らわないし、女性に嫌われたくなければ従順さを演じるだろう。(これが大きな間違いであることに気づかずに)
 大人しさ、従順さは日本では美徳される傾向があるが、度を過ぎると人間を卑屈にさせる。出世や正規雇用獲得、告白成功など、結果が出なかった場合自分の努力が無駄になったと感じるからである。

 友人や家族に恵まれれば、ここで励ましやアドバイスがもらえ立ち直るきっかけを得られる。しかし孤独な人間はストレスをため込んだまま、何がまずかったのか分からずに再び、より大人しい人間、より主張しない人間を演じ続けるだろう。しかし内に闇を抱え卑屈になっていくので、周りからは益々敬遠されていく。


(そしてそれが、10年泥のように下働きした結果の先が見えない絶望であったり、1人の女性を何年も恋い焦がれたあげくの失恋だった場合、自分だけでは受け止めることができないぐらいの大きな衝撃となろう。これで腹を割って話せる友人がいない、かつ親子不仲などで家庭でも居場所がない状態ならば、本人を救う手だてがほとんどない状態である。)


 仕事で否定され、恋愛で否定される。そして最後には、心の闇が本人の心を喰らい尽くしてしまう。
 「俺は周りに気を使い周りのことを考え生きてきた。それなのに周りは俺を傷つけ誹る。そのくらいでって言いたいかい?俺の哀しみなんて誰にもわかんねぇだろうよ。俺はよおく分かったんだよ。俺は生まれてこなけりゃよかったんだってね。みんな幸せそうな顔しやがって。許せねぇ、何人か見せしめに殺して、俺も死んでやる。」
怨念の塊になった犯人にとっては、もはや自分と同じ境遇の人間以外の全てが敵となる。


 社会的に認められている普通の人が恨めしい。カップルが恨めしい。絶望していない人間が恨めしい。


 「誰でも良かった。」というが、このような背景の犯人がターゲットにするのは、自分が殺害可能で、自分より幸せな不特定多数となる。だから無防備な人間を狙うし、女性も狙われやすくなってしまう。警察や国会に殴り込まないのは、何もできないまま捕まるリスクが強く、自分を破壊した(と思っている)社会に復讐できないからである。

 それでは今後この様な事件が起こらないために我々ができることは何だろうか。


 まず、前提として犯人本人の責任はマリアナ海溝よりも深いであろう。その上で2つ言及したい。


 1つは、視聴者をテレビに釘付けにすることだけを考え編集し、コメンテーターに嘆いてもらいその後はほったらかしのマスコミの報道姿勢である。犯人のやり口を詳細に解説するなど、常軌を逸している。この様に犯行を行えば、殺人事件を起こし社会を不安にさせることができますよと言っているようなもので、犯人側の味方、市民の敵である。


 もう1つは、大人しく、自分を出さないことは美徳ではないと社会的に合意していけるように、家族や友人を大切にしていくことを社会のリーダーがアナウンスすることである。総理大臣、会社の上司、教師。父親母親。いろいろな社会単位で行えることはある。
 泥のように働けなどと言うぐらいなら、休暇の一つもやって家族や友だちと遊びに行かせてやってほしい。会社を楽しい雰囲気になるようマネジメントして欲しい。女性には傷ついた男性を癒し、社会を平和に保つ大きな力があることを知って欲しい。(卑屈な女性には無理ですが)


 このような事件が起きにくい社会を目指すことが、我々自身の安心にもつながるし、犠牲者への何よりの供養になると思う。