感情的になってしまう農地問題

 昨日のTXワールドビジネスサテライトで、「異なる日本の農地事情」という特集が組まれていた。

「日本の優良農地は、都市的な土地利用としての不動産価値が潜在しており、農家が売却のチャンスを逃さないために耕作放棄地を農業の志ある事業主に貸さない。結果農地が細切れになって効率化しない。しかもその農地は、もともと戦後にGHQによって分け与えられ、農業振興の予算(税金)で整備されたもので(多分に公共性のあるもので)ある。」神門善久さんの解説があった。

 ここは、ほぼ納得して聞いていた。

 しかし、このあとでコメンテーターの伊藤元重さんが「農家の土地が農家の自由になることはおかしい。制限すべきだ。」といった類のコメントをした。

 感情的になるのは情けないことだが、頭が沸騰した。そして寂しくなった。

 農家には農地を所有していることについて、税制上優遇措置がとられているらい。農業が発展しないのは農家が土地成金になりたいだけで、新規事業者を参入させない。健全な発展が阻害される。そうなのかもしれない。

 しかし、農業が荒廃したのは農家のせいだけではない。耕作を放棄する際、政府に要請された減反もあっただろう。転作に勧められた作物も猫の目のように変わり、対応するのも大変だったあげく、政府の読みが外れたために損を被った人も多いはず。政治行政はそのときそのときで責任を取ってきたであろうか。

 また一方で経済界は、競争の論理で食のブランド化をあおり、ふつうの作物は淘汰されても仕方がないといわんばかりだ。

 ふつうの作物だって、作るのは大変である。作ったことのない人にわかるはずもない。これを軽視するから、農家の反感を買うのだ。私は農家ではないが、そう思う。

 自給率を高める上では、貢献している自負がどんな農家にもあるはずである。それを、大衆は価格で簡単に否定する。一部のブランド米、ブランド野菜、ブランド肉をありがたがり、それ以外の(といっても十分おいしい)作物は安く買い叩く。生産者にリスペクトし、生産者が赤字にならないような市場価格にはならない。形の整わない野菜に至っては、買うことさえしない。(市場が買わないから、流通しない。)

 どんなに土地を効率化させても、土地の絶対量が違うのだからアメリカやオーストラリアに勝てるはずがない。それでも、農地問題を解決した暁には、消費者はフードマイレージを重視するだろうか。輸入品よりも国産品を買い、日本の農業をサポートしてくれるのだろうか。

 伊藤さんのコメントを聞いて違和感を覚えたのは、作物をしょせん「価格」でしか捉えていないように感じ取られたからだと思う。「命をつないでくれている、自然の恵み、ありがたいいただきもの」という発想が感じられなかった。大変な仕事なのに、農業に対するリスペクトが低いから、担い手もいなくなるのだ。

 旧大店法により大手スーパーに駆逐された小売業者は、経済発展を妨げる邪魔者だったのだろうか。今回の話とシンクロする部分があった。
 
 蛇足だが、財産の私有を認めるのが、資本主義の前提であるはずなのに、農家の土地所有を認めないニュアンスの発言が理解できなかった。私の勉強不足かも知れない。