目上の人に意見しにくい日本社会と、子どもを押さえつける教師

 先生への要求は果てがない id:matcho226:20080824
 で以下の言及をしたことについてさらに考えたことを少し。

 子どもに答えられない質問をぶつけられて、先生が子どもを理不尽に押さえつけるのことがあるなら(あるのだろう。)それが良いとは決して思わない。


 教師が子どもを押さえ込んでしまう背景には、2つの理由があると思う。
 1つは「年長者を敬う、立てる」という儒教的価値観を子どもに刷り込むことが大切な教育的役割であるというコンセンサスが日本社会にあるから。
 もう1つは、教師がクラスを束ねるリーダーになるため求心力を高める手段として(多少理不尽さはあっても)怖い存在だと思わせることが有効だから。(君主論的には王道だろうか。)


 教育の目的の1つは、国民主権の基盤となっている民主主義の普及である。しかし民主主義は一人一人の意見を尊重するのが原則なので、目上目下で意見の重みに軽重はない。そこでは儒教的価値観とは衝突が起きやすい。

 
 実際学校に限らず、上下関係が厳しい組織で下のものが上のものに意見をすることは正にタブーだ。組織の秩序の根幹を揺るがす危機感を組織内の人間に感じさせるからだ。そしてこの儒教的価値観は社会に根強く残っているし、さらには強化すべきだという考えも多くある。安倍総理の掲げた”美しい国”などを支持する姿勢は最たるものだ。
 
 一方で若者も家父長的リーダーを全く望んでないとはいえない。理想の上司の上位に星野仙一監督は必ずと言っていいほど入っている。

 この様な風土が根付いてしまっている社会で、忌憚なく上司にものを言える環境を築くにはもう少し時間がかかるのではないだろうか。
 まずは民主主義と儒教の矛盾を認識するところから始まるのだと思う。現在は「どちらも大切であると教えよ」と教師は言われているはずだ。結構無茶苦茶な話である。
 
 
 反町ジャパンがオリンピックで戦ったときに、反町監督の指示と違う動きを選手たちは自分の判断で行った。監督の面子は丸つぶれだ。またそのように組織としてガタガタであったことは、大きな敗因の1つだったのかもしれない。
 スポニチ 全敗も当然…バラバラだった反町ジャパン
 http://www.sponichi.co.jp/olympic/news/2008/08/14/33.html
 
 しかし一方で、目上の者に意見すること自体はばかれるような環境は健全といえるかも疑問ではある。反町監督の指示はやけっぱち、玉砕に近い指示だったそうだ。
 gooスポーツ 玉砕を命じた反町ジャパン
 http://number.goo.ne.jp/others/column/20080819-1-1.html

 付和雷同にならないことは大切だ。しかし意見の収集がつかなくても船は山に登る。だから呉越同舟的な価値観は必要になってくるのだろう。物事はとても複雑なんだと思う。


 突き詰めて考えていくと、日本人の心に影を落とすあの太平洋戦争の失敗から、どうも我々は学べていないことが多いように思えてならない。