背理法で体罰の正当性がなくなっていけばいいな
この記事を書く時点で、
前記事:体罰反対を表明するために避けては通れない話http://d.hatena.ne.jp/matcho226/20081028/1225208878に2つのブクマコメをいただいた。とても考えさせられるコメントだった。ありがとうございます。
特にid:y_arimさんのコメントはたくさん考えさせられた。
ぼくの立場は、たったひとつの個人的な成功体験を「美談」として持ち上げ&一般化し、他者に対する範としてアピールするようなやつは糞馬鹿だということです。
はてなブックマーク > 体罰反対を表明するために避けては通れない話 - 啓発録(装った炎と高原の風)
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/matcho226/20081028/1225208878
これを読んで考えたことは、”なぜ私は糞馬鹿になってしまっていたのだろうか”(かな?)
私は山口良治という存在・人間の実績に圧倒されており”彼を否定するのは簡単ではなく、彼の実績と彼の体罰を含む振る舞いは切り離せない”と思っていた。しかしy_arimさんはそれを(あっけにとられるくらい)簡単に否定した。
何だ。簡単に否定できるのか。否定すればいいのか。
じゃあなぜ自分は否定できなかったのだろう。あたまがわるいからだろうか。
人間は社会人になるまでに多くの人に関わってもらっている。親。何人もの教師。私は彼らに、教育と称してそれなりに殴られてきた。
その上で私は彼らにいろんな形で世話になってきた。結果、”殴られるのは嫌だったが、なんだかんだ言って私はいろんな意味で感謝している。”という思いを抱いていた。
(ここが大事なところだと思うが、”感謝しているが、殴られたのは嫌だったし絶対に許せない。”ではなかったのだ。)
これって洗脳されていたのだろうか。暴力を肯定させられていたのだろうか。思い返せば暴力を振るわれたその場では、その理由に正当性があろうがなかろうが、服従しなければdisられて生きる場所を奪われる恐怖があり、選択の道がなかった。
ともあれ、今日まで私は体罰はいけないことだと思いながら、一方で愛あるゲンコツの存在を信じ(させられ)ていた。
そして矛盾を内在したまま記事を書いて、y_arimさんのコメントを受け取った。
少々乱暴な意見だが、世の中に体罰許容の意見が散在するのは、その人たちも私のように考えてきたという可能性はないだろうか。体罰の再生産。
(これも私という個人の経験の一般化かもという怖れはあるのだが。客観的なデータを元にしていないからどうしても論理が上っつらを滑ってしまう。)
y_arimさんのブクマコメに相当する内容を自分で書くことができれば、(できは悪いが)背理法的に体罰はいけないという論を残すことができたのに。残念でならない。
からまった糸が少しだけほどけたような気がした。
追記:
メンターなりロールモデルなり、人間は自分が共感できる”憧れ”を特定の人物に求め、その存在に追いつき追い越そうと、自分が努力をする動機付けにする傾向があると思う。サッカー少年が中村俊輔に憧れるように。
守破離の守の段階では”あばたもえくぼ”になってしまいがちだが、山口先生をメンターにしている教師が”山口先生の指導全般”と”山口先生の体罰を含めた指導”を切り離して捉え、指導して下さることを望みたい。
また(私は知らないが)体罰を明確に否定するカリスマ性(情報発信力)のある教師の出現を望む。
この国には(教師ではないが)星一徹の亡霊がまだまだ浮遊しているように感じられてならない。