お寺は貧困に向き合うべき?

自殺と向き合えない仏教ー浄土真宗@
http://d.hatena.ne.jp/macha33/20070911

問題は、「仏教の教義」が、自殺志願者にどんな言葉を投げかけることができるのか、ということであろう。

僕は仏教についての知識はさほど持ち合わせない門外漢であるが、本来この様な問題にこそ宗教に携わる者が積極的に関わるべきだと思ってしまうのは、果たして見当違いな考えなのだろうか。


なぜそう思うかというのは甚だ単純で、貧しい人に手をさしのべていたマザーテレサに感動したことであったり、小さい頃に歴史のマンガで行基空海が貧民救済やため池工事を行っていたことを読んだ記憶があることであったり、大学時代に「出家とその弟子isbn:4101059012、人間というものにとことん向き合った親鸞の直向きさに心打たれたことがあるからだ。


派遣村の問題でも、湯浅さんが立ち上がり、それに呼応する形でボランティアが集まったり、様々な政治団体が関わっていき賛否合わせてずいぶん物議を醸したが、その騒ぎについて知人がつぶやいた言葉を自分は今も消化できないでいる。

「こういうときにお坊さんって、何で動かないのかな。日比谷公園厚労省も良いけど、増上寺寛永寺だって手を挙げてくれても良いんじゃないか?ていうかこういうときこそ本来宗教の出番なんじゃないか?」

そのとき僕は「うーん」と唸っただけだった。その考えがどれほど的を得ているのかも、正直僕には分からない。


率直なところ、宗教って冠婚葬祭以外になじみのあるものではない。でも、寺社に行くのは結構好きな方で、そこでは熱心にお祈りをしている人にも出くわすことが多くある。そのときには、自分との感覚の違いに少しだけ驚く。


話はややずれるが、きのう生まれて初めて街を歩くお坊さんにお布施をしてみた。僕にとっては非日常的体験だ。お坊さんは僕にお辞儀をして、僕に向かってお経を読んでくれた。なにぶん初めてだったもので少しだけ恐縮してしまった。