体罰反対を表明するために避けては通れない話
前記事:体罰はいけないと言うけれどhttp://d.hatena.ne.jp/matcho226/20081027/1225111422にてブクマ・ブクマコメしていただいた方々のおかげで考えを深めるきっかけを与えていただいている。本当にありがたい。
前回言い足りなかったことを書いてみようと思う。ちょっと長い追記と思っていただきたい。
今回も体罰を(消極的に)容認する立場で話を進めるが、次のことについては認めた上であることを断っておく。
・個人の判断にゆだねられる暴力は拡大していく性質を持つ
・体罰は対象者への憎しみを隠すための方便に利用することができる
・明らかな暴力行為すらそれを繰り返すうちに、それが躾や教育行為であるかのような自己暗示を自らにかけていき正当化してしまう危険性がある
書くのは大きく2つである。
1.体罰を用いずとも子どもを導く手法がある中で体罰を採用する積極的理由はないのであって、その意味で体罰を行うことは教師の怠慢であるのか。
2.ある美談について。
※前回は”しつけ”に焦点を当てるために年齢の低い子を想定して論じたが、今回は年齢を高校生まで拡張する。
1.について。以下引用。
モジモジ君の日記。みたいな。 - 体罰とは教師の無能さの証しである
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050929/p1
断固として、体罰は認められない。それは肯定されるべきではない。一応、僕なりに体罰の定義をしてみると、「指導に従わせるを目的に肉体的苦痛を加えること」である。殴る蹴るは当然のことながら、正座・廊下に立たせる、あるいは授業中トイレに行かせないといったことも含まれる。それにしても、「指導に従わせるために」行使される暴力とは、実に倒錯した話である。指導とは、私が正しい見解だと考えるものを生徒に示し、その理解をきっかけとして従うように促すことである。それは本質的に言語的コミュニケーションであり、その「意味」が理解されなければ指導にはなりえない。それを拳で伝えることができないとは言わない。しかし、それは言語によって伝達可能な事柄である。なぜ拳の出る幕があるのか。
この疑問について、連続で恐縮だが対照的な考え方を引用させていただく。
c/fe 体罰の是非
http://d.hatena.ne.jp/uzulla/20081025#p1
体罰はその手法の中でも一番コンビニエンスな方法だと考えている、特に時間と効果において。
一人の子供に1日かけて諭すと他の子供は放置になるだろう、一人の子供にげんこつ一発5分ですめば、他の子供に時間がさけるだろう。
親はしつけ以外にも子供のために限ってもやらなければいけないことがやまほどある。
しつけも作業なので、効率的であるという事をまったく無視することはできないのではないだろうか。
教育の本質的成果が現れるのは子どもが社会人になる20年後、30年後であろう。
そのような長期的スパンで考えれば、体罰で質さず時間をかけてその子に寄り添い語りかけ、3年後かかろうが5年後かかろうが自分を見つめ直してくれるのを信じることが教育の王道だろうと思う。
しかし現実の教師に与えられている条件はそんなに甘いものではないのではないだろうか。
今回橋下知事が学力向上を掲げたが、実は文科省とて大きな方針は変わらない。ゆとり教育を失敗と位置づけ、学力向上へと舵を切っている。
橋下知事の発言でも分かるように、行政は「時間がたたないと教育の成果は分からない」というのは言い訳と捉えている。小学校6年生の時点・中学校3年の時点でどれくらいの学力が備わっているのかにこだわっている。子どもが勉強する意義を自ら見いだすまで待つなどと言う悠長なことは考えていない。
子どもの学力を上げなければダメ教師。子どもの得点力を向上させる教師が優秀な教師である。そうやって行政が教師を評価していく。ゆとり教育を拒んだのは世論である。
教師が担任として関われる期間は基本1年。評価を受ける単位も1年。子どもの持つ闇が全治1年以上だったときに教師はどうすればいいのだろうか。効率的な荒療治に賭ける心理は生まれないだろうか。
もう一つ。教育には即時性効果というものがある。悪いことをしたらそのときに指摘をしなければ教育効果は得られないというものだ。
一つの問題行動について教師が子どもに説明を行い、よく考えて欲しいと言うとしよう。子どもは1分後は別の刺激により別のことを考え始め、前のことは忘れるかも知れない。それしか考えないように子どもを隔離するには、多大な労力がいる。クラスの子たちが問題を起こすたびに一つ一つそのように対応することが物理的に可能なのだろうかという問題が出てくる。
2.について。
”体罰は絶対に認められない”という価値観から教師を遠ざける一つの教育の成功例を考える。
スクールウォーズのモデル・山口良治さんだ。
このドラマは実話を元につくられた話で、多くの人間が山口先生に教わることで人生を切り開き成功している。山口良治さんの実績は教育のひとつの模範と成り得るし、カリスマ性も備わっている。彼の実績を否定することは、彼の多くの教え子の成功を否定することにもつながるのでそれほど簡単ではない。
そして言わずもがなだが、山口先生は彼なりのTPOで教え子に手をあげている。
私個人は76世代と言うこともあり、多感な時期にあのドラマを見、涙を流した記憶がある。そしてこの涙は多くの日本人に共有されている。肯定・支持されているのである。プロジェクトXに彼が出演したときには大きな反響を呼んでいる。
参考:タケルンバ卿日記 - 本日のYouTube泣き虫先生に涙 http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20080529/p2
(動画の冒頭でリアル山口先生が生徒の頭ををひっぱたくところ有。)
信は力なりisbn:4845105209
劇場版スクールウォーズasin:B000K4WTNM
山口先生はレアケースなのかも知れない。天才的に暴力のマネジメント能力があるのかも知れない。いや、実は見えないところで精神的にトラウマを受けた生徒がいるのかも知れない。
しかし、山口先生は一つの教育の理想として輝きを放っており、それを目指す教師は体罰を教育手法として用いることは想像に難くない。
山口先生の成功は美談として語り継がれていく可能性がある。たった一つの例ではあるにせよそれが人々に与えた影響は大きい。体罰を否定するならば山口先生の教育は認めるわけにはいかないだろう。
追記:記事を書く参考にさせていただいたリンク先です。
革命的非モテ同盟 - 暴力のマネジメントと体罰や暴力的行事の問題についてhttp://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20081027/1225045176
前記事でもリンクを張りましたが、大変勉強になった記事です。
ohmynews - 「全裸ランニングは強要ではなかった」と元部員
サッカー部顧問の自殺は新聞報道が原因説?
http://news.ohmynews.co.jp/news/20080129/20252
個人的には忘れられない一つの悲劇。
以下は最近起きた体罰関連のニュースや、そのコメント記事
asahi.com - 橋下知事「手を出さないとしょうがない」 体罰容認発言
http://www.asahi.com/politics/update/1026/OSK200810260045.html
毎日jp - 体罰:男性教諭、小2男児に 床に頭たたきつけ軽傷−−東松山大岡小 /埼玉
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20081024ddlk11040171000c.html
good2nd - 殴るな!
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080711/1215789875
遅刻83人にゲンコツかました先生のニュースに対するコメントです。
体罰はいけないと言うけれど
※結構主観に依存する文章になってしまいましたので、それでも結構という方のみ、おつきあい下さい。
体罰を理屈でどれだけ正当化できるかやってみようと思う。
まず体罰を定義する。
体罰:身体的、精神的苦痛を伴う全ての行為。
例:ゲンコツ。お尻ビンタ。5分以上の正座。5分以上の起立。廊下に立たせる行為。グランドを走らせる等の罰。掃除罰。長時間拘束しての居残り勉強。
次に、絶対に体罰はいけないという考えの主な理由をまとめてみる。(参考はhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/politics/update/1026/OSK200810260045.htmlの以下の方々のブクマコメです:解釈の誤解があるとすれば私の責任です。)
・”しつけ”は大人の横暴を隠すための方便。(id:y_arimさん)
・力で人間の心を良い方向に導くことなどできないし教育的効果など期待できない。むしろDVなどトラウマになる問題の方が大きい。(id:mojimojiさん id:kurotokageさん id:eastofさん)
・教師が恣意的に用いることの危険性。適切に運用することはほぼ期待できないし、ひどいときには教師の”俺様ルール”に従わないという理由で暴力を振るわれててしまう。(id:furukatsuさん)
・体罰=暴行、傷害(id:aya_momoさん)
・子どもに暴力をふるって良いなら大人にも振るって良いことになる。(id:hidemaruさん)
・子どもは理性的な対話が困難であるという理由なら、知的障害者にも暴力を振るって良いことになる。(id:tztさん)
それでは反論を試みる。おおざっぱに考えるのでつっこみどころ・反論が行き渡らない取りこぼしが多々あると思うがお許し頂きたい。(idコールしておいてすみません。)
1,社会生活を営む上で大人が我が子に許すべきではない(と私は考える)事のなかで、思わず手が出かねない、感情的になりそうなことは何か考えてみる。考える目的は、最低限の”しつけ”とは何かを探ることである。年齢は幼稚園から小学校低学年くらいを想定している。
・公共の場所でドタバタと騒ぎはね回る、落書きなどのイタズラをする
・ものを粗末に扱い、投げたりして壊す
・茶碗を持たずに、顔を近づけ犬猫のように食べる
・いけしゃあしゃあとうそをつき、人をだます
・人さまのものを取る、ぬすむ
・悪いことをしてもあやまらないでふてくされる
・みんなでよってたかってカメをいじめている(うそです。年下の子を泣かしたときです。)
・(id:takanofumioさんのご指摘による追記:人を殴ったり傷つけたとき)
いわゆるジコチューである。
2,付け加えて、学校で先生が許すべきではない事を考えてみる。
・授業中座っていられず、歩く、しゃべる、教師の指示を聞かずに好き勝手なことをする
・(勉強)道具を粗末に扱ったり、こわす
・人さまのものをとる、ぬすむ、傷つける
・1で述べたことおおむね全て
・これらを繰り返す
※ちなみにこれらがいけないことだという「常識」を疑う方もいると思う。疑うことを否定はしないが、少なくとも私は、この様な行動を頻繁に行うお子様と自分の子どもを付き合わせようとは思わない。
※上記の理由に限りという条件がつけば、手を出すことはDVにはならないと思う。DVとは殴られる理由が殴られる人には分からず、常に殴られる境遇に置かれているという意味と捉えているので。
(ただid:furukatsuさんの言う、暴力のマネジメントの困難性には反論できないのは認めます。)
→革命的非モテ同盟 暴力のマネジメントと体罰や暴力的行事の問題についてhttp://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20081027/1225045176
つぎに、このような子どもの行為を説明や叱りとばすだけで直せるか直せないか。仮に直せないときはそれで諦めるか。
それともう一つ。ひっぱたくことで、子どもは自分が悪かったと思ってくれるのかくれないか。
よくよく考えてみたが、これについてはケースバイケースとしか言えない気がする。
確かに、叩くことでは絶対に更生しない子というのもいそうな気はする。しかし、子どもによっては、ひっぱたくことで子どもが過ちを認めてくれるという可能性がなくはないとも思える。そうなるとショック療法にかけてみたくなる誘惑はでてくるし、そこでも手を出さないというのは、更生の機会をみすみす逃すという葛藤も生まれるのではないだろうか。
例えるなら外科手術か投薬治療かを選択できるというときに、外科手術を始めから放棄する積極的理由はあるだろうかということである。
最後に、体罰は暴行傷害の類であるからいかなる理由があろうとも認められないという事について。
これは逆質問になってしまう。
まず、今回挙げた子どもの反社会的行為は窃盗・暴行などに入るものも数多くあり、それは児相などに送るという考え方も出てくると思う。(現実は穏便にすませたいという圧力が高いため難しいだろうが)
ただ、騒ぐこと・食事のマナー・勉強しないこととそれに伴う抵抗や反発は、犯罪には入らないため、当事者で対応することになるだろう。
そこで、本人が行動改善の意志を感じていないときに、いわゆる罰に相当する精神・肉体いずれかに苦痛となるもの(体罰)を科さないで、どのように子どもに自覚を促すのであろうか。または、体罰を行うくらいなら自覚を促す必要はないということなのだろうか。
asahi.com:橋下知事「手を出さないとしょうがない」 体罰容認発言 - 政治
http://www.asahi.com/politics/update/1026/OSK200810260045.html
今回の橋下知事の発言は、目的が”大阪の子たちの学力の向上”、手段が”場合によっては体罰も辞さない指導”である。
確かに勉強しないこと全てを自己責任という形にすれば、勉強させずに放っておくという選択もあり得るかも知れない。周りの邪魔になる場合は追放(出席停止)も良いかもしれない。学校に行かなくてもやる気になれば独学で知識を身につけるだろう。ただしこれでは、橋下知事の教育目標(大阪を日本一学力の高い県に)というのは達成が難しいだろうとは思う。橋下知事はあくまで小学校・中学校を終了する段階での学力にこだわっているので。
(大ざっぱに言えば、教師が品行方正でない子どもに必要以上に関わらなくてもいいことになるので、単純に総体的な子どもたちの勉強時間・反復回数が減ることが予想される。)
ひととおり考えたことを書いてみた。読み返してみると裏打ちされる数値がないので、非常に客観性に欠けるものになってしまった。最後まで読んでいただき期待外れだった方には申し訳ありません。ですが少しでも自分自身考えを深めたい思いはあります。ご意見がいただければありがたいです。
追記:最近体罰について考えさせられるきっかけになった記事にトラバしておきます。
Paradigm Shift Design 体罰と個性と
http://d.hatena.ne.jp/kent013/20081024/1224867813
c/fe 体罰の是非
http://d.hatena.ne.jp/uzulla/20081025#p1
希望の国のエクソダスを読んでみた
「希望の国のエクゾダス」ISBN:4167190052、最近読んだ本の中で印象に残っている本で、記事にしたいという思いはあったが、中々実行できずにいた。
そんなおり、空気を読まない中杜カズサ - 『希望の国のエクソダス』に登場するUBASUTEは、何を目的としていたのか考えてみる
http://d.hatena.ne.jp/nakakzs/20081011/1223730794 を読むことで触発していただいたので、便乗して書いてみた。
まずは物語の私的まとめと感想を。(ネタばれあります。)
この物語は、今の日本(バブルが弾け先行き不透明で希望が見えにくい社会)を背景にした小説だ。
この小説で描かれたパラレルワールドはディテールが実に細やかで、時折現実と小説の世界の境界が分からなくなるような錯覚を起こすほどだった。
この小説をはじめからおわりまで貫くキーワードは、小説のタイトルにある「希望」と言う言葉だ。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。でも希望だけがない。」
物語の鍵を握る人物”楠田ポンちゃん譲一”は現代の若者の代弁者的存在だ。上記の台詞は彼が物語後半で大人たちに対し放ったものだ。
物語中では、中学校で集団不登校という社会現象が起こる。現実の不登校はクラスに一人くらいの規模だが、小説では日本中のあちこちでクラスの約半数が不登校となる。
彼らは関わりが密である大人、すなわち親と先生の「良い学校や良い会社へ行けるようにがんばろうね。」というセリフの欺瞞や危うさを感じとる。良い会社に行ったら幸せになるなんて嘘だと見抜くのだ。そして希望ある未来を描けず、やむにやまれず学校や家を捨てる。そしてネットを駆使して自活の道を探っていく。
物語の中の若者たちは純粋すぎるくらいに反発する。だがそれを大人(親や教師)に主張しても「いいから言うことを聞け」と年長者の権利で圧力をかけられ、時にシカトされ取り合ってもらえない。そして問題の根深さ(実は身の回りの大人にも問題を解決する力はないこと)にも気づいていく。
この国は若者を蔑み、年長者に冨も権力も集められている。
若者が希望を持てない社会に、どんな未来があるのだろうか。
ポンちゃんたちの行動の根底を流れる思いだ。
物語の中でポンちゃんたちが起こす行動は突飛だ。しかしポンちゃんたちの感覚では全てが、単にサバイブしているに過ぎない。ジャングルの中で食糧が無くなったから狩りをするのと同じだ。
現実の社会はどうだろう。ロスジェネ問題やサブプライム問題で世界同時株安となり、一部の資金が潤沢なステークホルダーを除き不景気局面の中で生活する可能性が濃厚になりそうだ。年金に対する世論の圧力は政権を吹き飛ばしかねない反面、少子化は歯止めがかからない。時代を覆う閉塞感は小説をも凌駕する勢いを持ってしまっているとも言える。
物語の終盤に主人公(テツという雑誌記者)は恋人と入籍し子どもをつくる。ポンちゃんたちに深く関わっていく中で主人公に心情の変化が起きた上でのことなのだがこれがこの小説が放つ1つのメッセージのように私には受け取れた。
シンプルに考えれば結局、社会にとっての「希望」は子どもなのではないだろうかということ。
だから子どもや若者が生き生きとしていられる社会、「希望」を見いだせる社会でなくては、社会そのものが衰退せざるを得ないのではないだろうか。
そういった意味で、私は冒頭に紹介させていただいたnakakzsさんの指摘はうなずける部分が大きい。
空気を読まない中杜カズサ - 『希望の国のエクソダス』に登場するUBASUTEは、何を目的としていたのか考えてみる
id:nakakzs:20081011
つまり、「負債を後の世代に回すな」という若者が持つ思考に対して応えるものが、その経済であり、UBASUTEの理念ではないかとも思えるのです。この場合、もちろん雇用者側がその高齢者を受け入れる体制が整っていないといけないのですが
(UBASUTEとはポンちゃんたちと緩くつながっている味方のグループの一つだ。)
ただ、高齢者としては一から労働に足るスキルを身につけるよりはこれまでの経験を生かしたいと思うだろう。さらには欧米(特に福祉大国と言われる国)ではリタイア生活をエンジョイする文化があるので、老人にも働いてもらうことに国内でコンセンサスを得るには、若者が政治的影響力を持つこと無しには難しいのではないかとも思える。
ここから先(特に最後の言及)は自分には論じる力がないので、自分が参考にしているリンクを紹介させていただくことにする。小説の面白さって読んでみないと分からないな。
Chikirinの日記 -“政治影響力”方程式:チャンスなのにね。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080921
若者がいかに政治に影響力がないか(ないがしろにされているか)が分かる記事です。
FIFTH EDITION - 就職氷河期と資本主義
http://blogpal.seesaa.net/article/87766493.html
年功制に関する一考察です。私は正直経済学については良いイメージがない。それはTVなどで経済評論家の言っていることが人によってあまりにもぶれが大きく、しかも予測が外れることも大きいから。だから自分で論じる自信もない。
この記事は個人的には納得できることが大きかったのだが、コメント欄では意見が多彩で、やはり経済のとらえ方は多種多様すぎると感じた次第である。
今の僕にブタとウシは殺せない
id:matcho226:20081006(僕に殺されたニワトリ)の続きです。
僕の手によって食糧になったニワトリ。まずは毛をむしり取る。死んでから時間がたつと、むしるのが大変になるらしい。
次に首と足を切断。熱湯をかけるか火であぶったが記憶が曖昧だ。その後解体。体の内部から湯気が放たれる。つい先ほどまで生きていた証だ。
胸肉。もも肉。手羽肉。ササミ。ボンジリ。ハツ。レバー。砂肝。こんなに多種多様な食材が手に入るのかと改めて驚く。4人くらいで分けるのなら大層なご馳走になるだろう。
ササミは新鮮なうちは生で食せるらしい。その場でわさび醤油で頂く。得も言われぬ思いだ。普段ものを食べるときにこの様な感覚を味わうことはありえなかった。
本当は、肉は少し置いてから調理した方が肉自体が柔らかくなり旨みも増すらしい。しかしそのときはその場で焼いたりスープにしてしまった。普段食べている肉は何なんだろうというくらい旨みは少なく歯ごたえがあった。それでも感慨は深かった。
大げさだが、自分自身が生まれ変わったようなインパクトが私には感じられた食事だった。楽しく食事ができることに感謝した。
ひとつの命を絶つことで食糧を得る。それを体験できたことは、自分の中ではとても大きい体験だった。
魚介類だって、植物だって同じ命だ。それは確かにそうだ。でも命を絶つための労力は決して同じではない。
ニワトリは瞬きをするし表情があった。触れると暖かかった。死をどう受け止めているかが表情から読み取れてしまうのだ。畢竟こちらもそれ相応の心構えが必要だった。これがブタやウシだったらどうなるのか。
ブタを殺す時に一番苦しませない方法は、心臓を突いて失血死させる方法らしい。しかしこれは(当たり前だが)ニワトリほど簡単ではない。しかもニワトリよりは暴れるし、苦しむらしい。
本で調べたのだが、ウシは頭を銃で撃ち抜く方法しか分からなかった。銃って・・・
ニワトリの命をもらって得られたことの1つは、今の自分にブタやウシを殺すことは難しい事を、身をもって実感できたことだった。
関連リンク:生きるために殺す 自分の欲望で殺すid:matcho226:20081002
僕に殺されたニワトリ
☆ この記事は、ある1人の”へなちょこ”な男が、1羽のニワトリをビビリながら殺しました、というお話です。
前回の記事 生きるために殺す 自分の欲望で殺す
id:matcho226:20081002
ニワトリはころしたことがあります。なぜころせたかたというと、苦しみを少なくころせる方法を教えてもらいながらころしたからです。(詳細は別のエントリに書こうと思います。)
今の日本では、普通に生活していてニワトリを殺す機会はまずない。そんな中あえて自分の手でニワトリを殺そうなど、物好きとしか言いようがないかも知れない。
無理矢理こじつけるのならばたぶん、自分の力で食糧をつくることで、自分の生への根源的な執着心を見つめたかったのだと思う。
私の親もニワトリを潰す経験はしていない。とはいっても、祖父や祖母が潰す様はよく見ていたらしい。話題を振ると結構具体的な話をしてくれる。クビをちぎった後クビがない胴体が走り回っただの、クビの骨が折れてもすぐには死なないだのとほとんどホラーじゃないかと思える話を聞かされていた。
数年前のある時、ニワトリを殺す機会に恵まれた。しかもレクチャー付きという願ってもない機会だ。
早朝、鶏小屋に行きニワトリにエサをあげた。小屋にいたのは廃鶏と言って、卵をあまり産めなくなって業者からただで譲り受けたおばあちゃん鶏だ。15羽くらいの中から、今日潰す2羽を選び、狭い箱に閉じこめ隔離した。この2羽にはエサはやらずに夕方に潰すとのことだ。(解体時に出てくるうんちが少なくなるように)
私は親に聞かされていた素朴な疑問をぶつけてみた。「暴れたりはしないんですか。」
「動物も自分が殺されることはなんとなく分かるみたいですよ。でも不思議なものでね、自分が世話をしたニワトリはほとんど暴れませんね。でもよそからもらってきてすぐ殺そうとするとひどく暴れます。あと殺し方にもよるでしょう。ニワトリが苦しまないやり方でやりましょうね。大丈夫ですよ。」
夕方になった。まずブルーシートを敷き、おがくずをたくさんしいた。落ちる血を吸い込ませるためだ。そこに洗濯竿のようなものを準備し、ニワトリを逆さ吊りにして殺すのだそうだ。
ニワトリの片足にひもを縛り箱から出した。そしてひもを持ったまま2分くらい黙祷した。この時間をニワトリにあげることによって、ニワトリも少し恐怖が薄まるのだと言っていた。長いようで短い、短いようで長い、何とも言いようのない2分だった。感傷的になっていたせいかもしれない。
ニワトリを吊した。片足だけで吊すので、もう片方はぶらぶらしている。この方がニワトリにとって楽なのだろうか。大人しいもので暴れる様子はない。(とはいっても変な姿勢にされているわけだから、多少は動くのだが)羽をばたつかせることがないように背中越しに縛り固定した。いよいよだ。
「ナイフで頸動脈を切り、失血死させます。」「はい。」
片手でニワトリの頭を固定する。体温を感じる。
頸動脈の場所を教えてもらい、その内側にフォールディングナイフを差し込んだ。ニワトリの目は閉じ、痛みに耐えているように見える。時折瞬きをし、心なしか痛そうな表情に見える。そのまま90度ナイフの角度を変え、首の内から外へナイフの刃を進めた。血が出てこない。外してしまった。変に高揚してしまい動きがぎこちなくなってしまう。
気持ちを入れ直してもう一度。今度は血が出てきた。ピューッと出てくるものだと思っていたがそこまでの勢いはない。ぽたぽたと滴り落ちる。頭と首をしっかりと支持してあげる。脈があるがまぶたはもう開かない。
暴れないと言っても、少しは体を動かす。苦しいのだろうか。そうこうしているうちに痙攣が始まり、ニワトリが失禁してしまった。体は動いているが、もう意識はないそうだ。
このニワトリは今日一日をどのように過ごしたのだろう。動物は動物なりに自分の死期を感じ取ることができると聞いたことがある。
私も生きたい。ニワトリも生きたい。そういう生と生のぶつかり合いも多少は覚悟していた。しかしミスがあったとはいえ拍子抜けするぐらいニワトリは命を差し出してくれた。
言葉にはできない感情が私の心の中にはたくさん生まれていた。
※ もう少しだけ続きます。
※ 写真があるかもしれないので、ぜひ見たい!というご意見があれば掲載を考えます。
※今回の記事を書くきっかけを与えて下さった記事のリンクです。
hituziのブログじゃがー - 「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」(きっこのブログ)
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080928/1222573039
hituziのブログじゃがー - いつも屠場(とじょう)労働者の みなさんが 笑顔で いられますように。
生きるために殺す 自分の欲望で殺す
hituziのブログじゃがー - 「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」(きっこのブログ)
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080928/1222573039
にブクマコメをしたところ、hituzinosanpoさんよりお返事を頂きました。
http://b.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080928#bookmark-10192383
hituzinosanpoさんのエントリにお返事コメントしようかとも思ったのですが、簡潔に自分の思いをまとめる自信がなく、また長文にもなりそうなので自分のはてダに考えをまとめてみようと思います。
まず「命を奪う」というのはとても重いテーマで、論じていてもまとまりがなくなる自信wがあります。また私にはその資格もあるかは疑わしいとexcuseをさせてもらって。
その上で、hituzinosanpoさんのエントリへの返事という意味もありますが、それ以上に自分の思いや考えを(たぶんまとまりがなくなりますが)書いていきます。
まず引用させていただきます。
hituziのブログじゃがー - 「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」(きっこのブログ)
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080928/1222573039
高校生のころ、ともだちが「自分では ころせない」って いうのを きいて、びっくりしたことが あります。わたしには、そういった感覚が理解できない。なぜなら、わたしは平気で ころせてしまうからです。〜中略〜ニワトリだろうと、ウシだろうと。どんな動物でもです。〜中略〜そんなに「ひどいこと」ですか。「わらって ニワトリを ころす」のは。ひどくも なんとも ないでしょう?わらって たべているのだから、わらって ころすのが当然です。深刻ぶって ころすのなら、深刻な顔で たべるのが当然でしょう。
なんて言うんだろうな〜。ここが私個人の感覚とは違うんですね。私は基本的にビビリで、ころすことはできますけど、決してわらってはころせません。
ニワトリはころしたことがあります。なぜころせたかたというと、苦しみを少なくころせる方法を教えてもらいながらころしたからです。(詳細は別のエントリに書こうと思います。)ブタやウシは無理だなと思うんです。それは、きっところすときに苦しませてしまうだろうなという思いと、彼らの断末魔を聞く覚悟がないからです。
人間を除く動物の話をします。彼らは自然界では熾烈な命のやりとりをしています。食うか食われるか。どんな動物でも生きているということは他の命を奪い、喰らっている。そこに人間の思い描く「かわいそう」というヒューマニズムはあまり当てはまらないんだと思うのです。
だから、人間だけがその枠から外れ、動物を食さないということはあまり意味はないのではないだろうかと考えてしまう。
(別の意味で、つまり肉は環境に負荷をかけることで入手できる贅沢品で、穀物を肉にしないだけで多くの貧困が解決できるから、肉を食す機会を減らすというのなら意味はあると思います。:〜1kgの肉は10kgの穀物より作られる〜:)
また見方を変えると、「シカがかわいそう」といって保護したことによりシカが大量発生し環境を破壊する(害獣化)などということもあるわけです。このとき、人間がシカを喰らうことは、環境を保全することにも一役買うことになります。(自然界ではオオカミなどがいることで均衡が保たれていた。ただ人間は自己都合でオオカミも銃殺するので、その点気持ちは複雑。)
他の例を挙げます。シジミやアサリ・小魚は海(湖)の栄養を食べて大きくなります。栄養とは汚れの元です。だからそれらを捕って食べることは、特に閉鎖的な海(東京湾など)の水を浄化することにも関わりがあることになります。
hituzinosanpoさんの感覚、私の感覚。命のやりとりに関する感覚というのはその人の性向の根源に迫るものなので、どれが良い悪いとはそうそう簡単に述べられません。
私も(笑いながら命を奪うことはできないといいながら)矛盾しますが、お祝い事の時にご馳走が出るのはわくわくするし、それがより原始的な、生きた動物をその場で屠殺するパーティだったとしても、お祝いの雰囲気に飲み込まれるんじゃないかなという気はします。
テレ朝の黄金伝説でつるの剛士さんがカジキマグロとファイトしていましたが、私でもきっと体中の血がたぎるでしょう。おもいっきり銛を突き立てると思います。
私が蚊やゴキブリを殺す理由は、正直ムカツクからです。蚊やゴキブリの立場にしてみればたまったものではないですね。
結局、自分の感覚にあまり整合性を持てていないのです。
特定の宗教を信仰しているわけでもありませんが、私は神様仏様イエス様、いつでもどこでも良くお祈りをします。
今日も命を頂く。今日も人と争い誰かを傷つける。赦してもらいたいからです。勝手なものですが、これをしないと私は精神を病んでしまうかもw。
あとは「にんげんもどうぶつだもの。」とブクマコメで書きましたが、人間も動物(霊長目ヒト科)である以上、突き詰めて考えると人間が人間を殺すこと、人間が人間を食すことについても「それはあり?なし?」という問答が脳裏をかすめてしまうのです。
(きっとhitujinosanpoさんは人間と動物は明確に分けているのでしょう。でないとわらってうしをころすようにひとを・・・しまいますものね。)←とても失礼な物言いで書くことをためらったのですが、私が感じた大きな疑問点でしたので・・・すみません。
やっぱりまとまりはありませんね。でも、今の日本の食がいびつになっている、問題意識が無いってどうなの?という思いはあります。
いまのわたしにかけるぶんはこのていどです。
目上の人に意見しにくい日本社会と、子どもを押さえつける教師
先生への要求は果てがない id:matcho226:20080824
で以下の言及をしたことについてさらに考えたことを少し。
子どもに答えられない質問をぶつけられて、先生が子どもを理不尽に押さえつけるのことがあるなら(あるのだろう。)それが良いとは決して思わない。
教師が子どもを押さえ込んでしまう背景には、2つの理由があると思う。
1つは「年長者を敬う、立てる」という儒教的価値観を子どもに刷り込むことが大切な教育的役割であるというコンセンサスが日本社会にあるから。
もう1つは、教師がクラスを束ねるリーダーになるため求心力を高める手段として(多少理不尽さはあっても)怖い存在だと思わせることが有効だから。(君主論的には王道だろうか。)
教育の目的の1つは、国民主権の基盤となっている民主主義の普及である。しかし民主主義は一人一人の意見を尊重するのが原則なので、目上目下で意見の重みに軽重はない。そこでは儒教的価値観とは衝突が起きやすい。
実際学校に限らず、上下関係が厳しい組織で下のものが上のものに意見をすることは正にタブーだ。組織の秩序の根幹を揺るがす危機感を組織内の人間に感じさせるからだ。そしてこの儒教的価値観は社会に根強く残っているし、さらには強化すべきだという考えも多くある。安倍総理の掲げた”美しい国”などを支持する姿勢は最たるものだ。
一方で若者も家父長的リーダーを全く望んでないとはいえない。理想の上司の上位に星野仙一監督は必ずと言っていいほど入っている。
この様な風土が根付いてしまっている社会で、忌憚なく上司にものを言える環境を築くにはもう少し時間がかかるのではないだろうか。
まずは民主主義と儒教の矛盾を認識するところから始まるのだと思う。現在は「どちらも大切であると教えよ」と教師は言われているはずだ。結構無茶苦茶な話である。
反町ジャパンがオリンピックで戦ったときに、反町監督の指示と違う動きを選手たちは自分の判断で行った。監督の面子は丸つぶれだ。またそのように組織としてガタガタであったことは、大きな敗因の1つだったのかもしれない。
スポニチ 全敗も当然…バラバラだった反町ジャパン
http://www.sponichi.co.jp/olympic/news/2008/08/14/33.html
しかし一方で、目上の者に意見すること自体はばかれるような環境は健全といえるかも疑問ではある。反町監督の指示はやけっぱち、玉砕に近い指示だったそうだ。
gooスポーツ 玉砕を命じた反町ジャパン
http://number.goo.ne.jp/others/column/20080819-1-1.html
付和雷同にならないことは大切だ。しかし意見の収集がつかなくても船は山に登る。だから呉越同舟的な価値観は必要になってくるのだろう。物事はとても複雑なんだと思う。
突き詰めて考えていくと、日本人の心に影を落とすあの太平洋戦争の失敗から、どうも我々は学べていないことが多いように思えてならない。